「106万円の壁」が消えても、人手不足は消えない|週20時間を「育つシフト」へ変える飲食店経営

「106万円の壁」が消えても、人手不足は消えない|週20時間を「育つシフト」へ変える飲食店経営
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2026年10月1日、短時間労働者が健康保険・厚生年金保険に加入する要件の一つだった「所定内賃金が月額8万8,000円以上」という賃金要件が撤廃されました。いわゆる「106万円の壁」の撤廃です。

ただし、飲食店がこのニュースを「もう年収を気にしなくていい」「社会保険の対象が全員に広がった」とだけ受け取ると、判断を誤ります。消えたのは賃金要件であり、週20時間という労働時間要件、企業規模要件、学生ではないことなどの条件は残っています。企業規模要件も一度に消えるのではなく、2035年まで段階的に縮小されます。

一方、2026年度の地域別最低賃金は全国加重平均1,177円へ上がり、宿泊・飲食サービス業では正社員等とパートタイムの両方で人手不足感が続いています。賃金、社会保険、人手不足が同時に動くなかで、経営者が「20時間未満に収める人を増やそう」と反応すれば、シフトは細切れになり、教育、引き継ぎ、QSC+H、店長の時間に別の原価が生まれます。

RBRの主張は明確です。制度の境界を避けるためにシフトを作るのではなく、店が約束する価値を再現し、人が育ち、利益が残るように仕事を設計する。そのうえで、一人ひとりの希望と制度をすり合わせるべきです。

飲食店の店長とスタッフがシフト表を囲んで話し合う様子

1.消えたのは「月8万8,000円」だけ——境界は年収から労働時間へ移った

飲食店の店長がスタッフと勤務時間や社会保険について個別に確認する様子

日本年金機構は2026年10月1日、短時間労働者の社会保険加入に関する賃金要件を撤廃したと公表しました。これまでの要件のうち「所定内賃金が月額8万8,000円以上」がなくなり、現在も「週の所定労働時間が20時間以上」「勤め先が従業員51人以上の企業」「学生ではないこと」などが対象判定に残ります。フルタイム労働者の所定労働時間・日数の4分の3以上で働く人には、もともと別の適用ルールがあります。

ここでいう企業規模は、単純な店頭スタッフ数とは限りません。法人の場合は法人全体の厚生年金保険の加入対象者などで判定されます。1店舗の見た目だけで「うちは小さいから関係ない」と決めず、実際の対象範囲は年金事務所や社会保険労務士へ確認する必要があります。

企業規模要件は、51人以上から段階的に広がります。厚生労働省の案内では、36〜50人の企業は2027年10月、21〜35人は2029年10月、11〜20人は2032年10月、10人以下は2035年10月から対象になる予定です。現在51人未満の個店・小規模企業に、2026年10月1日から一律に新しい加入義務が生じたわけではありません。ただし、多店舗化を考える経営者や、今後も長く店を続ける人にとっては、今から働き方を設計し直すための予告でもあります。

「130万円の壁」も同時に消えたわけではありません。こちらは配偶者等の被扶養者認定に関わる別の基準です。19歳以上23歳未満の親族に関する基準など、個人の条件で扱いも変わります。店長がスタッフへ一律に「得です」「損です」と答えるのは危険です。店が説明すべきなのは、自社で想定している所定労働時間、加入対象となる可能性、相談窓口までです。最終的な判断に必要な情報は、本人の世帯状況も含めて専門窓口で確認してもらう。これも誠実なオペレーションです。

2026年度の地域別最低賃金は、答申段階の全国加重平均で1,177円、前年度より56円上昇しました。最低額でも1,085円です。厚生労働省は、最低賃金が1,016円以上なら週20時間働くことで月8万8,000円の賃金要件を満たすため、その要件の実質的な意味がなくなると説明しています。つまり今回の変更は、突然新しい負担を作ったというより、実態に合わなくなった「金額の線」を外し、週20時間という「時間の線」を前面に出したものと読めます。

2.20時間未満へ細切れにすると、見えない原価が店長へ集まる

飲食店の繁忙時間帯にスタッフ同士が引き継ぎを行う様子

人件費表だけを見れば、社会保険の対象にならない働き方を増やす方が軽く見えるかもしれません。しかし、店は延べ労働時間だけで動いているわけではありません。

仮に、週240時間の仕事を10人が24時間ずつ担う場合と、15人が16時間ずつ担う場合を考えます。総労働時間は同じです。けれども後者では、教える相手、共有する相手、希望を調整する相手が5人増えます。入退店時の引き継ぎが増え、料理の状態、お客様の要望、予約変更、欠品、清掃の残りを渡す回数も増えます。もちろん、多様な人が短時間で参加できること自体は店の強みになり得ます。問題は、境界を避けることだけを目的に人数を増やし、その接続部分を設計しないことです。

接続が弱い店では、次のようなことが起きます。

  • ピーク直前に入った人が仕込みの変更を知らず、店長へ確認が集中する
  • 同じ説明を複数回行い、教育時間が営業時間外へはみ出す
  • 温度、盛付け、提供順、アレルギー確認の基準が人によってずれる
  • 常連客の好みや予約客の事情が、シフト交代で途切れる
  • 欠員を埋めるため、最後は店長や特定の社員が長時間働く

厚生労働省の2026年8月「労働経済動向調査」では、宿泊業・飲食サービス業の労働者過不足判断D.I.は、正社員等がプラス32、パートタイムがプラス34でした。これは「不足」と答えた事業所の割合から「過剰」を引いた数値です。調査対象は常用労働者30人以上の民営事業所で、バー、キャバレー、ナイトクラブなどは対象外です。すべての個店を代表する数字ではありません。それでも、正社員だけ、パートだけを採れば解決する状況ではないことは読み取れます。

RBRが見るべきだと考えるのは、時給だけではなく「接続原価」です。引き継ぎ時間、再説明、やり直し、店長の穴埋め、品質のばらつき、常連情報の断絶。会計帳簿に一つの科目として出なくても、利益と働く人の時間を確実に削ります。

最低賃金への対応は、以前の記事「最低賃金の全国平均1177円へ」で人件費、価格、メニューを中心に整理しました。今回の論点はその先です。総人件費を何円にするかだけでなく、その時間が経験として積み上がり、次の勤務でも使える状態になっているかを問わなければなりません。

3.社会保険を「会社の負担」で止めず、長く働ける基盤として説明する

店長がスタッフへ働き方と役割の広がりを説明する様子

社会保険へ加入すれば、店にも本人にも保険料負担が生じます。手取りが変わるため、本人が労働時間を見直したいと考えることもあります。その選択を否定したり、加入を避ける方向へ誘導したりしてはいけません。

同時に、社会保険を手取りの減少だけで説明するのも片手落ちです。厚生労働省は、厚生年金による年金の上乗せ、病気やけが、出産で会社を休んだ場合の傷病手当金・出産手当金などを加入のメリットとして案内しています。経営者が「会社のコストが増える」とだけ話せば、スタッフも「働くと損をする制度」としか受け取れません。保障と負担の両方を示し、分からない部分は年金事務所等へつなぐ必要があります。

2026年10月には、適用拡大に合わせた保険料調整制度も始まりました。対象となる小規模企業等で新たに加入する短時間労働者のうち、標準報酬月額12万6,000円以下の人について、事業主が本人分の保険料を一時的に追加負担し、最長3年間、本人負担を軽減できる制度です。日本年金機構によれば、事業主が追加負担した分は後の保険料から差し引かれるため、その追加分は最終的な事業主負担にはなりません。利用には対象要件と申出期限があります。

この制度を「使える助成があるらしい」で終わらせないことです。対象者、期間、申請、終了後の負担を確認し、本人へいつ・誰が・どう説明するかまで決めて初めて現場で使えます。社会保険労務士の無料派遣や、労働時間延長・賃上げを伴う取組への助成制度も案内されていますが、適用条件は店と本人の状況で変わります。記事の数字だけで申請可否を決めず、公式窓口で最新条件を確認してください。

小さな店にとって大事なのは、福利厚生の豪華さで大手と競うことではありません。働く時間、身につく役割、保障、賃金、休み方を一つの説明としてつなぐことです。「長く入れる人を優遇する」という話でもありません。短時間を望む人にも明確な役割と安全な引き継ぎを用意し、時間を増やしたい人には技能と責任がどう広がるかを見せる。選べる働き方を、店の都合ではなく双方が納得できる形にすることです。

4.弱い店が先に決めるべきは人数ではなく「残したい役割」

厨房でスタッフが役割と作業動線を確認する様子

一般的な制度対応は、対象者を洗い出し、保険料を試算し、届出をするところで終わります。必要な手続きですが、それだけでは人手不足もQSC+Hも改善しません。

RBRは順番を逆に考えます。最初に「何人を何時間使うか」を決めるのではなく、お客様へ繰り返し届けたい価値から、残すべき役割を決めます。

例えば夜営業なら、料理を作る人と運ぶ人だけでは足りません。入店時に不安を解く人、注文の迷いを減らす人、料理の遅れを察知する人、会計前に満足度を確かめる人、閉店後に明日の改善点を残す人が必要です。一人が複数を兼ねても構いません。大切なのは、その役割が誰の頭にあり、次の人へどう渡るかです。

そのうえで、次の四つを同じ表に置きます。

  1. 価値:その時間帯にお客様へ何を約束するか
  2. 技能:その約束に必要な判断・作業を誰が再現できるか
  3. 時間:準備、営業、片付け、教育、引き継ぎに何時間かかるか
  4. 経済:賃金、事業主負担分の保険料、残業、募集・教育、やり直しを含めていくらかかるか

ここで使う指標は、人件費率一つでは不十分です。簡易的には「限界粗利ベースの1労働時間当たり額」を、(売上-食材原価-容器代-決済・配達手数料など売上に連動する費用)÷総労働時間で見ます。これは営業利益ではなく、シフト比較のための内部指標です。合わせて、店長の穴埋め時間、引き継ぎ回数、作り直し、提供遅れ、欠勤時に代替できる技能数を記録します。

売上が同じで人件費率だけ上がったとしても、店長の残業が減り、作り直しが減り、次の責任者が育っているなら、将来の能力を買っている可能性があります。逆に人件費率が下がっても、店長が毎日穴を埋め、休みの日まで連絡を受けているなら、経営者と店長の人生を使って数字を整えているだけです。

大手は採用数、研修設備、福利厚生の規模で勝てます。個店が同じ土俵で戦う必要はありません。小さな店は、誰がどこまでできるようになったかを経営者と店長が近い距離で見て、本人の希望に合わせて次の役割を渡せます。この細かな翻訳を反復し、教育とシフトをつなぐことが、模倣されにくいケイパビリティになります。

5.14日で試す——「壁回避シフト」を「育つシフト」へ変える

14日間のシフト検証後に店長とスタッフが結果を振り返る様子

制度変更の月に、全員の契約とシフトを一気に変える必要はありません。まず一つの時間帯、一つのチームで14日間の小さな検証を行います。

1〜3日目:事実と希望を分けて聞く

対象になり得る人を確認し、雇用契約上の所定労働時間、実労働時間、契約期間、学生区分、企業規模の判定を整理します。そのうえで個別面談を行い、「加入したい・避けたい」と二択で迫らず、希望する収入、時間、休み、身につけたい仕事、不安を聞きます。制度説明は公式資料を共通に使い、個人の損得を店長が断定しません。

4〜6日目:顧客価値から役割を描く

ピーク前、ピーク中、閉店前に、お客様へ守りたい約束を一つずつ書きます。そこから、仕込み、案内、調理、提供、会計、清掃、引き継ぎの役割を並べます。誰ができるかを技能表にし、一人しかできない役割へ印を付けます。

7〜10日目:一つの時間帯だけ組み直す

例えば金曜夜の2時間だけ、単に人数を減らすのではなく、引き継ぎの重なりを15分つくる、教育担当を固定する、注文確認の役割を明示するなど、一つの仮説を試します。所定労働時間の変更は本人と合意し、法令・契約・就業規則に沿って行います。

11〜13日目:数字と現場の声を同時に見る

売上、人件費、1労働時間当たりの限界粗利だけでなく、提供遅れ、作り直し、引き継ぎ、店長の穴埋め、スタッフが迷った場面を記録します。お客様の待ち時間や声も、個人を責める材料ではなく仕組みを直す材料として扱います。

14日目:残す行動を一つ決める

良かったシフトそのものをコピーするのではなく、なぜ良かったかを言葉にします。「ピーク前に15分重ねると欠品共有ができた」「案内役を決めると新人が料理説明に集中できた」のように、再現できる行動として残します。店長が次週の朝礼で伝え、別の曜日でも小さく試します。

行動が繰り返されれば習慣になり、共有された習慣が文化になります。制度が変わるたびに人数を削る店は、いつもゼロから混乱します。制度変更を使って役割、教育、対話、数字の見方を更新できる店は、変化への対応そのものが能力になります。

「106万円の壁」が消えたことは、人件費のニュースだけではありません。店が人を何時間“使うか”から、その時間で何を学び、誰に価値を渡し、次の人へ何を残すかへ、問いを変える機会です。週20時間の境界を避ける前に、20時間働くと何が育つ店なのかを考える。そこから、働く人の時間と人生を守りながら、顧客価値と利益を残すシフトが始まります。

参照した一次資料・公的資料

※制度の対象判定、保険料、助成・支援の利用条件は、事業所や本人の状況によって異なります。この記事は一般的な経営上の考え方を整理したもので、個別の法務・労務・税務判断を代替するものではありません。最新の公式情報を確認し、必要に応じて年金事務所、社会保険労務士、税理士等へご相談ください。

この記事を書いた人 Wrote this article

新田 敏之

新田 敏之 RBR合同会社 統括 / 男性

RBR(Restaurant Business Reform)代表。 鉄板焼きの現場で25年。 これまで数多くの飲食店の立て直しを中心とした経営改善に携わり、売上改善、商品開発、人材育成、オペレーション構築、デリバリー事業の立ち上げなど、現場に入りながら支援を行ってきました。 現在は「ガブ飲み食堂」を運営しながら、主力商品の開発・ソースや商品の卸事業、デリバリーFC事業の展開、そして飲食店の経営改善支援を行っています。 このブログで発信するのは、机上の理論ではありません。 すべて現場で試し、失敗し、改善を繰り返してきた実践知です。 料理だけでは、お店は続きません。 利益が残る仕組み、人が育つ環境、お客様に選ばれ続ける理由。 私は、その「経営」を一人でも多くの飲食人に届けたいと考えています。 飲食店を増やしたいわけではありません。 利益が残る飲食店を、一店舗でも増やしたい。 その想いを胸に、今日も現場で挑戦を続けています。